2012年7月31日火曜日

『翻訳の政治学』  與那覇潤

このところ、批評家東浩紀が草案した憲法論議について、今朝(2012/07/31)の朝日新聞で大きく取り上げられていたが、先週の朝まで生テレビでも少し見た。
東は東北の震災で「日本」というものがなくなることをおそれたというが、テレビでの討論でも日本とか民族という言葉をきちっと検証していなかった。
グローバライズされた今の日本での企業の生き残り戦略は、既に日本の国家の域を出ているのに、マスコミに接近している知識人たちは、国家に固執し続けていた。
そういえば、最近マスコミも中国の軍事的な台頭に対抗するための日米同盟という論調が多いが、日中関係の長い歴史や日中戦争時の複雑な構図を考えれば、旧ソ連や現ロシアと同じ仮想敵国とすべきではないことはわかるはずだ。
アメリカのアジア戦略に同調せねばならない事情はあるにしても、日中関係を悪化させる論調はどうかと思う。
こんなことを思いながら、思い出したのがこの本である。

冷戦終結後、国境を超えて活動するグローバルな非国家主体の増加と、それによる(先進)国家間での相互依存の緊密化を、個人の帰属や君臣関係が境界を超えて複合化していた中世封建ヨーロッパ的な世界の再来と見る「新しい中世」論(neomedievalism)が、主に国際政治学で盛んになったが〔ex.田中1996[2003]:Chap.7]、サイバースペース上の空間分割に代表されるような諸現象から考察して、先述の山下範久〔2002:72-90〕は、現在のグローバル化はむしろ「新しい近世」の段階に入っているという、刺激的な洞察を行っている。アーキテクチャの設計次第で人々がアクセスする「世界」の範囲を自在に切り分けることができる、IT技術の増殖が典型的に示しているように〔Lessig1999=2001:Chap.7)、今日はあたかもかつての近世東アジア諸国がそうであった如く、複数の「世界」がその認識を相互に交渉させることなく、並存する時代になっているのではないかというのである〔山下2003:230-235]。本書の視点から再解釈すれば、もともと西洋起源のきわめて特殊で、なおかつ脆弱な存在であった「近代」という装置の幻想性が明白になるにつれて、実は人間社会がその根幹においては近世以来の段階に留まっていたことが次第に露呈し、メディアやプラットフォームもそちらにあわせて整備されるようになってきているということになる。いわば「新しい」近世というよりは、今一度の近世への「回帰」である。[256-257]

日本の近代化に翻弄された沖縄を考えるに際して、與那覇は近代化を相対化して考えようとしている。あらゆる面で「国民国家」の破綻は現実化しており、国民国家こそ総力戦のための体制だったこともわかっている現在では、歴史を遡るというのではなくて、脱近代化、脱国民国家の思想が必要であろう。
中国の父兄親族集団は国家を当てにできない時代に誕生した。そもそも漢民族などはいい加減に拡大する民族である。
これも日本も同じで名乗りさえしなければ、風貌で分からない在日外国人は日本名の通称で生きていけるのと、さほど変わりはないだろう。
国家が破綻することを危惧するよりも、経済的にも相互扶助としても自律できない、個人、家族、親族、村落共同体を真剣に考えるべきだと思う。
国家が機能しなくなった無縁社会の克服が何よりも急務だと思う。右傾化する人はそのために仮想敵国をつくって、戦時体制をもう一度再構築しようというのだろうか?

翻訳の政治学―近代東アジア世界の形成と日琉関係の変容
2009年12月18日 第1刷発行

著 者 與那覇潤【よなはじゅん】
発行者 山口昭男
発行所 株式会社岩波書店

目次

序論 「同じであること」と翻訳の政治       一
1 同一性と翻訳           二
(1)同一性の哲学史         二
(2)価翻訳の哲学史              四
(3)翻訳の社会学     八
(4)翻訳の政治学        一二
(5)翻訳の制度論              三
2 東アジアの近代と翻訳                一六
(1)東アジア的近代論の混乱      一六
(2)国民国家論の誤謬     一七
(3)漢文脈と近世外交      二〇
(4)長い近代と短い近代               二三
(5)本書の構成          二六
3 日琉関係の翻訳―維新以前     二七
    (1)近世期:   二七
(2)幕末期:        三〇
第Ⅰ部 「人種問題」前夜- 「琉球処分」期の東アジア国際秩序       三五
第一章 外交の翻訳論―FHバルフォアと一九世紀末東アジア英語言論圏の成立::四〇
1 東アジアの近代と「西洋の衝撃」再考     四〇
2 明治初年の日琉関係::            四三
(1)「琉球処分」以前:     四三
(2)「琉球処分」以降                       四五
3 フレドリックヘンリーバルフォアー知られざる日本公使館員: 四七
4 「世界ノ公論」の争奪-英字新聞上の日中間象徴闘争   ‥五〇
5 翻訳という齟齬1言説空間の乖離と秩序観の未統一     五四
(1)バルフォア自身の琉球論=              五四
(2)領土観の齟齬               :.五六
(3)人種論の齟齬:            五九
6 小 結―東アジア英字新聞における翻訳と公共隼    六一
(1)英語言論圏の形成とその意義          六一
(2)今日的含意              六四
第二章 国境の翻訳論―「琉球処分」は人種問題か、日本琉球中国西洋  六九
1 「琉球処分」と「民族問題」の不在        六九
(1)ナショナリズム論の袋小路  六九
(2)琉球処分は民族問題か?                  =七一
(3)言説と文脈、「人種」と「民族」        =.七三
2 一九世紀における近代国際秩序と人種論の位相:    : 七四
(1)『万国公法』           七四
(2) ペリー艦隊民族誌     七六
(3)大槻文彦の翻訳            七八
(4)松田道之二打の併合正当化論       七九
(5)人種概念と古代史の不在                  八〇
3 人種論の交錯と乖離-グラント調停交渉における翻訳  八二
(1)中国でのグラント       八二
(2)明治政府の外交準備           八五
(3)日本でのグラント          八八
(4)横浜英字新聞での人種論争  八九
(5)明治政府の反論    九三
4 東アジア世界の論理と琉球帰属問題  九五
(1)持続する中華世界秩序                  九五
(2)同文同種論の位相‥          九九
(3)人種言説の存在と非活用一〇二
5 小 結― ナショナリズムの制度論に向けて 一〇四
間章α 国民の翻訳論 ― 日本内地の言説変容     一一〇
1 血統の翻訳論 - 「誤った自画像」をめぐって          一一〇
2 家族の翻訳論- 「家」の「血」への翻訳        一一三
(1)民法典編纂以前            一一三
(2)民法典論争        一一四
(3)穂積八束              一一六
3 人種の翻訳論― 「人種」のRaceへの翻訳 一二〇
(1)「人類学」以前    一二〇
(2)「人類学」以降                  一二二
4 文化の翻訳論 ― Culture\Kulturの「文化」への翻訳=一二五
(1)明治期                  一二五
(2)大正期                 一二七
5 中間総括―翻訳、媒介、ネットワーク           一三二
第Ⅱ部 「民族統一」以降― 「沖縄人」が「日本人」になるとき   一三九(076)
第三章 統合の翻訳論― 「日琉同祖論」の成立と二〇世紀型秩序への転換:  :一四五
1 歴史という劇場と演技と一四五
2 近 世―向象賢建議と為朝伝説          一四八
(1)向象賢建議    一四八
(2)源為朝渡琉伝説                一五〇
3一九世紀まで ―日本内地の史料研究状況   一五一
(1)松田道之の神話批判              一五一
(2)明治政府の史料政策-同祖論の「発見」と非活用        一五三
(3)一九世紀末の内地歴史学界 一五五
(4)民族化の端緒? -同化教育という現場  一五七
4 二〇世紀への転換-内地アカデミズムの変容 一六一
(1)土俗研究の始まり    一六一
(2)神話学の誕生=        一六二
(3)高橋龍雄の琉球神話論      一六四
5 琉球弧の二〇世紀―書き換わる歴史認識 二ハ七
(1)伊波普猷の登場             一六七
(2)東恩納寛惇と為朝伝説論争一七三
(3)民族統一論の定着       一七七
6 小 結―民族とはなんであったか    一七八
(1)公定ナショナリズム論の誤謬       一七八
(2)民族とロマン主義、そして国家    一八〇
(3)民族概念の利益とコスト        一八二
(4)二民族を超えるもの  一八四
第四章 革命の翻訳論― 沖縄青年層の見た辛亥革命と大正政変一九〇
1 「日本人になること」と「中華世界からの離脱」  一九〇
(1)「日清戦争分水嶺説」の成果と課題    一九〇
(2)ポストコロニアリズムと反復する伊波史観      =一九二
(3)中国史への再接合と翻訳(論)の可能性  一九四
2 第一革命期の『琉球新報』~古典的中国観と傍観論  一九六
3 第一革命期の『沖縄毎日新聞』~「革命」への没入とその挫折  二〇一
4 第二革命期の『琉球新報』~中国観の転換と衆愚政治への警鐘   二〇四
(1)漢籍から文明史へ            二〇四
(2)デモクラシーとポピュリズムの狭間で      二〇七
5 第二革命期の『沖縄毎日新聞』―革命「からの」投金への反転二〇八
(1)革命未だ止まず=二〇八
(2)新理想主義の方へ            二一〇
(3)理想への同化に賭けて              二一五
6 小 結―帝国日本という舞台           二一七
間章β 帝国の翻訳論―伊波普猷と李光洙、もしくは国家と民族のあいだ:二二三
1 琉球弧と朝鮮、二つの「植民地公共性」二二三
(1)「植民地公共性」の比較?        二二三
(2)伊波普猷と李光洙        二二五
2 二〇世紀東アジアにおける民族と国家   二二八
(1)国家から民族へ                 二二八
(2)「民族主義」の流入と受容  二三〇
(3)「真正さの体制」と民族のゆくえ         二三二
3 帝国を翻訳する         二三五
(1)大正期沖縄県紙の見たアメリカ          二三五
(2)帝国への抵抗と、翻訳と              二三七
結論 翻訳の哲学と歴史の倫理   二四三
1 近 代               二四六
(1)翻訳は不幸を生むか:          二四六
(2)近代の認識論と翻訳     二四九
(3)最初からポストモダンだった近代    二五二
2 現  代=                二五四
(1)持続する近世外交?      二五四
(2)再近世化と「新しくない」レイシズム       二五七
(3)翻訳不可能性再考                二五九
(4)近代と翻訳の意義                二六四
3 「ポスト近代」            二七〇
(1)理念なき国家日本?          二七〇
(2)帝国論の不毛を超えて          二七三
(3)中国化した世界?    二七五
参照文献              二八三
1一次史料                   二八三
2 二次文献                    二八九
あとがき                     三一一

2012年7月25日水曜日

柳田の経世済民の志はどこにいったのか    谷川健一

柳田国男に関しては色々と評されているが、この対談の中で柳田を貴族と言って憚らないことに何か違和感を非常に感じた。
確かに高等官僚だった柳田の振る舞いは、そのように評されても仕方ないのかも知れないが、生い立ちを考えれば成り上がり者が権威を持ったと評した方が良いのではないかと思う。
私はかねてより、播磨地方のあれだけ塩田労働者や、皮革業等の非常民が多く住む地方に生まれながら、農民に拘っていたのか疑問だったが、成り上がり者は生い立ちを隠したかったからではないかと思うようになった。

それは薩長の成り上がり者にも共通したところもあるだろう。
私は奄美研究の延長上に島津藩の歴史や民俗を調べたが、琉球諸島に引けを取らない独自の社会文化が見いだされた。
学会やインテリ達が構築した日本という国家の記述すべき文脈から、権威者の国元の社会文化は避けられた。
だから、彼を貴族と称するのは皮肉でしかないと思う。

*目次は前回のブログに掲載

2012年7月24日火曜日

同時多発テロと戦後日本ナショナリズム    島田雅彦

対話の回路―小熊英二対談集

初版第1刷発行 2005年7月29日
著 者 小熊英二・村上 龍・島田雅彦・
網野幸彦・谷川健一・赤坂憲雄・
上野千鶴子・姜 尚中・今沢 裕
発行者 堀江 洪
発行所 株式会社 新曜社


「日本」からのエクソダス           村上 龍 7


同時多発テロと戦後日本ナショナリズム    島田雅彦 69


**

人類史的転換期における歴史学と日本     網野善彦 123


柳田の経世済民の志はどこにいったのか    谷川健一201


〈有色の帝国〉 のアジア認識         赤坂意雄 249
- 柳田思想の水脈と可能性

***
戦後思想の巨大なタペストリー       上野千鶴子 285
- 『(民主)と(愛国)』をめぐって


ナショナリズムをめぐって           姜 尚中 311


****

秘密の喫茶店                 今沢 裕 329


あとがき                     小熊英二 386

このところオスプレイをめぐって対米関係がマスコミで取り上げられることが多いが、おそらく政治家も国民もアメリカの横暴に対して真剣に立ち向かう気もないだろう。アメリカの対中国戦略としてのオスプレイ投入を、尖閣列島に関する日本の対中関係とリンクさせる人もいると思う。島田雅彦が述べるアメリカやイギリスの東アジアにおける戦略の一環でもあるが、アジアの台頭を封じ込めるには日中関係に楔を打つ必要がある。アジアにおける冷戦の継続(北朝鮮問題等)こそ、アメリカの国益にそうものであることは誰しも分かっていながら、アメリカに追随した方が日本の国益にかなってきたという事実も否めない。
冷徹なアメリカの戦略をこの作品は分かりやすく解説してくれている。マスコミではオスプレイ導入の怒りの矛先をアメリカではなく、政府に向けている場面を繰り返し報道しているが、マスコミ自体アメリカを怖れていることは目に見えている。ただ、原発問題が以前とは違う市民運動になったように、基地問題が市民運動になる機会でもあるので、日本のこれからのアジアにおける戦略も踏まえて、しっかり考えるべきだろう。それにはこのようなこの書のような解説をしっかり読んでおく必要もあると思う。